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見てやろう、味わってやろう   11-02-18 金 11:10:38 Weblog

道元さんのような濁りの無い透明な人物に対して、私の気を向けますと気持ちが良いものです。
道元さんを観るために投射した気力が、気持ちを切り替えた後もどこまでも道元さんに向かって突き進み、とうとう空の次元まで突き進む感じがします。道元さんは、今も空という原初の次元に在られます。近代インドの聖者ラマナ・マハルシも同じでしたが、澄んだ人はどこまでも透明です。
私は食べ物や品物を判断するときも、それに対して気力を投射(とうしゃ:投げ掛けること)します。悪い物の場合は、突き通ることができずに跳ね返ります。良い物の場合は、奥へ奥へと気が入って行きます。

道元さんの言葉、「仏道をならうというは自己をならうなり」には続きがありまして、それは
「自己をならうということは、自分を忘れることなり。自分を忘れるということは、空に溶け込むことなり」(私の意訳)
という言葉です。
要は、自分を正しく見詰めて行きますと、内在神という他人とも共有する1つなる神性を感じだします。個人(自我)という末端の枝葉の先端が私たちです。
細かい枝(自分)をさかのぼりますと、太い枝を通過してから1本の太い幹に到達します。どの枝先から登っても、同じ幹(内在神)へと行き着くのです。
「自分を忘れる」とは、我(われ・が)が消えて、素直に成ることです。
素直に成れば、悩みや苦しみさえも「通過」して、過ぎ去って行くのです。
今が苦しい人は、素直な視点で現状を見ることが最善です。早く苦しみは去り「変わり」ます。時間が助けてくれます。

道元さんは、時間の正体についても言葉を残しています。それは、有事(ゆうじ、ありごと)という言葉です。
道元さんは、時間=“この世だけの”「存在」だと看破したのです。
時間とは、見えない物であり、過ぎて消えて行く物なのです。物事の存在も、まったく同じだと言うことです。
更には結局は、自分(自我)=時間だとするのです
だから、自我(じが:ワレ良しの気持ち)とは、時間と同じで消えて行く物、また本当には無いモノだとしたのです。
時間も自我も、本当は無い物なのです。
だから、時間が在ることを証明できるか?と言えば、私は時間は無いが、その過程(かてい)が実在だと言います。
物事を悩み・喜び・怒り・・・この過程と経験こそが実在であり、神であり、宝なのです。

だから今に体験していることは、どんな事もすべてが大切なのです。あなたの悩みも、経験という神様の正体だったと言っても間違いでは無いです。
あなたは、神を体験していることに成るのです。
今日の最後は、ぶっ飛んだ話に成りましたが、要は何事も“素直に”味わって「やりましょう」と言うことなのです。
そうしますと、すべてが最後には大丈夫と必ず成ります。

生かして頂いて ありがとう御座位ます


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